第三十二章
二万人

来たのは、三十人ほどだった。
寝ている人の列のあいだを、走ってきた。畑番とは違う。足音が重い。腕や肩や背中のどこかが、人の形をしていない。
その上を、翼が低く飛んでいた。
高くは飛べないようだった。右の翼の付け根に、布が巻いてある。羽ばたくたびに、右だけが遅れた。
「…鶴嘴の傷だな」とマーロウが言った。
『治っとらんな』とドラグが言った。『いい気味だ』
いい気味だ、と言ったのに、ドラグの声は、少しも気持ちよさそうではなかった。
最初の一人が、列を飛び越えて、マーロウに向かってきた。
右腕が、肩から先、長い骨の刃になっていた。
ミラベルが、その前に割り込んだ。
『はい、あたしの坊やに触んないでね』
刃と刃が当たった。骨のほうが、根元から折れた。
ミラベルは、折れた刃を空中でつかんで、次に来た男の膝に投げた。男は寝ている列の上に倒れかけて、寸前で身をよじって、列の外へ転がった。
『あっはは。優しいねぇ、あんたたち。寝てる連中の上には倒れないんだ』
倒れた男が、顔を上げて、言った。
「…あれは、商品だ。傷をつけたら、減る」
ミラベルの笑いが、ほんの一瞬だけ止まった。
それから、さっきより大きな声で笑った。
『そっか。商品か。あっはは。そっか、そっか』
次の一振りで、三人が一度に倒れた。さっきまでより、ずっと深く斬っていた。
マーロウは、一の腕を肩に回していた。
一は、立っていた。立ってはいたが、足に力がなかった。六日、管から流される草の汁だけで生きていた体だった。
「歩けるか」
『歩ける。歩けるよ』
「二回言うときは、たいてい嘘だろ、あんた」
『…ばれたか』
一は、笑った。
ユランとヨルンが、反対側から一の体を支えた。三本の腕で。四人で一つの塊になって、丘のほうへ動きはじめた。
翼が、降りてきた。
マーロウたちの前、十歩のところに。
ケイルは、右の翼を半分たたんだまま、地面に立った。
『それは置いていけ』
「断る」
『おまえに訊いていない』
ケイルは、マーロウの後ろを見た。
ドラグが、そこにいた。
ドラグは、何も持っていなかった。
鶴嘴は、六日前の夜に兄の翼に刺して、そのまま失くした。棒の先の鉄は、その前の日にミラベルに二つにされた。
素手だった。
「翼を返せ」
『誰に』
「持ち主にだ」
『知りたがりの獅子か。あれは、翼を失くして帰っていった。それで困っているようには見えなかったがな』
「困っていないかどうかは、おまえが決めることじゃない」
ケイルは、少し首を傾けた。
その傾け方が、ドラグとまったく同じだった。
『…変わらんな、おまえは。昔から、他人の物のことで怒る』
「おまえは昔から、他人の物を欲しがった」
『そうだな』
ケイルは、翼を広げた。右の翼が、痛そうに震えた。
『来い。三年ぶりだ』
ドラグが、踏み込んだ。
速かった。水吸いを素手で掴んで投げたときの速さだった。
ケイルは飛ばなかった。飛べなかったのかもしれない。左の翼だけを振った。
翼の縁が、ドラグの肩を打った。羽根の一枚一枚が、刃のように硬かった。ドラグの軍服が裂けて、灰緑の肌に、赤い線が三本走った。
ドラグは止まらなかった。
止まらずに、兄の腰に組みついた。
二人は、光る草の上を転がった。寝ている人の列に、あと一歩というところで、ドラグが体をひねって、向きを変えた。自分の背中を、兄の下に入れた。
列の上には、倒れなかった。
ケイルが、翼で地面を叩いて、弟を跳ね上げた。
ドラグは宙で体を返して、兄の右の翼の付け根をつかんだ。布を巻いてある場所を。鶴嘴の傷を。
ケイルが、声を上げた。
初めて聞く声だった。痛みの声だった。
ドラグは、つかんだ手を離さなかった。兄を地面に押しつけて、翼の付け根に体重をかけた。
「…返せ」
ケイルは、地面に頬をつけたまま、笑った。
『…やっぱり、組むのはおまえのほうが上手い。投げるのと、組むのは』
「返せと言っている」
『このまま引けば、根元から取れる。取ればいい』
ドラグの腕に、力が入った。
入って、そこで止まった。
止まったのは、ドラグの腕のせいではなかった。
畑が、また暗くなったからだった。
さっきの半分の明るさで灯っていた光る草が、さらに半分になった。見える限りの畑で。何万本もの茎の中の白い筋が、細く、遅くなっていた。
それから、音がした。
音というより、音が減った。
二万人ぶんの寝息が、揃って、浅くなった。
ロズリンの声が、列のあいだから響いた。
『マーロウ・ケイン! この人の息が、弱くなっています!』
ロズリンは、ガリー・ノーツの横に膝をついていた。老人の胸に手を当てていた。
『さっきまで、草の光と同じ速さでした! 今は、半分です! 半分以下です!』
マーロウは、光る草を見た。
一の胸から切られた管を見た。
草から人へ。飯の代わり。
人から草へ。血を少しずつ。
二万人ぶんの畑を、この人一人で光らせていた、とユランは言った。
光らせていたのは、草だけではなかった。
一が、マーロウの肩から、自分の腕を外した。
「おい」
『分かったか』
「…分かった」
『おれもだ。今、分かった』
一は、畑を見ていた。暗くなっていく光の海を。
『九年、底で一人だった。誰かのために水を下げとるつもりは、一度もなかった。下げんと床が濡れる。それだけだった』
「一」
『上に来て、三日で連れてこられて、ここで六日寝とった。寝とる間に、二万人ぶん、おれの血が流れとったんだな』
一は、少しだけ笑った。
『妙なもんだ。九年で初めて、誰かの役に立っとった。本人が寝とる間にな』
マーロウは、一の腕をつかんだ。
「行くぞ」
『行かん』
「行くんだよ。あんたがここにいたら、共和国の都に運ばれて、一生草の肥やしだぞ」
『そうだな』
「そうだな、じゃねえよ!」
マーロウの声が、裏返った。
自分の声が裏返るのを、この二か月で初めて聞いた。
「待ってる人間がいないって言ったよな。だから底から出なかったって。今は違うだろ。ウィラが握手しただろ。名乗られたの十一年ぶりだって言ったよな、あんた」
『言った』
「だったら」
『だから、ここにおるんだ』
一は、マーロウの手を、そっと外した。
『二万人おる。この畑に。誰も名乗っとらん。誰も待たれとらん。おれと同じだ。九年前のおれと同じだ』
一は、振り返って、丘の上を見た。灯りが一つ、揺れていた。ウィラの灯りだった。
『嬢ちゃんに、言っといてくれ。握手、ありがとうな、と』
ミラベルが、刃を下ろしていた。
周りの兵が、誰も動いていなかった。ケイルを押さえつけているドラグも、押さえつけられているケイルも。
全員が、一を見ていた。
一は、さっきまで寝ていた場所まで歩いた。三十メートルの光の輪の真ん中。草が倒れて、人の形に窪んでいる場所。
そこに、自分で横になった。
切られた管の端を、自分で拾った。
「刃の姉さん」
『…なに、おじさん』
「つなげてくれ。おれの手じゃ、うまく入らん」
ミラベルは、しばらく動かなかった。
茶色い目で、一を見ていた。金属の目でも、見ていた。
『…あたしの仕事は、あんたを東へ連れてくことなんだけど』
「知っとる」
『あたし、叱られるよ』
「悪いな。悪いよ」
ミラベルは、膝をついた。
金属の指で、管の切り口を、一の胸の管の切り口に合わせた。刃を細く伸ばして、切り口の縁を、ほんのわずかに溶かすように撫でた。
管が、つながった。
光が、戻ってきた。
一の周りの三十メートルから。そこから、波のように、畑の端へ向かって。何万本もの茎の中の白い筋が、一本ずつ、太く、速くなっていった。
二万人ぶんの寝息が、揃って、深くなった。
ロズリンの手の下で、老人の胸が、ゆっくり大きく上下した。
ロズリンは、老人の胸に手を置いたまま、下を向いた。肩が震えていた。
ドラグが、兄の翼から手を離した。
ケイルは、起き上がった。
右の翼を押さえて、しばらく畑を見ていた。光が戻った畑を。
それから、弟を見た。
『…神の血は、一人でいい。今夜は』
「逃がすのか」
『欲しかったものは、自分から横になった。取り合う理由がない』
ケイルは、兵たちに手で合図した。兵たちが、下がった。
『行け、ドラグ。夜が明けたら、追う。夜のうちは、追わん』
「なんでだ」
『翼を、取らなかったからだ』
ケイルは、弟に背を向けた。
背中の灰白色の翼が、光る草の光を受けて、骨の色に見えた。
『あの獅子に伝えておけ。いつか返す、と。いつかは知らん』
マーロウは、最後にもう一度、一のところへ行った。
一は、目を閉じていた。眠っているのではなかった。胸が、草の光と同じ速さで上下していた。
「…おい」
『まだおるのか。行け。行けよ、おい』
「一つだけ訊かせろ」
『なんだ』
「名前の欄だ。あんたの。何て書けばいい」
一は、目を開けた。
マーロウを見た。同じ顔を。
しばらく考えていた。九年ぶんと、二年半ぶんと、十一年ぶんを考えているような顔だった。
『…一、でいい』
「番号だろ、それは」
『違う。おまえがそう呼んだ。呼ばれたら、名前だ』
一は、また目を閉じた。
『迎えに来てくれて、ありがとうな。迎えに、来てくれて』
二回言った。
今度は、嘘ではなかった。
丘の上に戻ると、ウィラが灯りを抱えて立っていた。
マーロウの後ろを見た。ドラグ、ミラベル、ロズリン、双子。
数えて、もう一度数えた。
『…一さんは?』
マーロウは、答えなかった。
答えずに、ウィラの頭に手を置いた。二度目だった。
「握手、ありがとうな、ってさ」
ウィラは、しばらく動かなかった。
それから、振り返って、畑を見下ろした。
地平線まで、光が戻っていた。二万人ぶんの光。その真ん中に、ひときわ明るい輪が一つあった。
『…あそこ?』
「あそこだ」
ウィラは、灯りを高く掲げた。
一回、振った。
二回、振った。
三回目は、振らなかった。代わりに、灯りを高く掲げたまま、ずっとそこに立っていた。
畑の真ん中の明るい輪は、何も返さなかった。
それでも、ウィラは、腕が震えるまで、灯りを下ろさなかった。
第三十二章 了