海壁

第三十一章

畑番

挿絵:畑番

夜まで待った。

丘の陰に荷車を隠して、畑を見下ろして、数を数えた。数えたのはロズリンだった。

『見える範囲で、四百二十列。一列に五十人前後。二万人を超えます』

「二万」

『見える範囲で、です。畑は地平線の向こうまで続いています』

ロズリンは、数字を書いた紙を、しばらく見ていた。

『…この数字を、私は書きたくありません。書かないと消えるので、書きますが』

畑のあいだを、人が歩いていた。

寝ている人の列のあいだを、ゆっくり。灯りを持って。一人ずつ顔を覗き込んで、管の刺さり具合を確かめて、次へ移る。

歩き方に、見覚えがあった。

急いでいない。迷わない。頭を下げる角度が、全員同じ。

「…あれも、変わった連中か」

『畑番だ』と後ろを向いたユランが言った。『寝てる連中の世話をする。言われたことしかしない。だから一番向いてる』


双子が、畑の仕組みを話した。

話したのは主にユランで、ヨルンはときどき短く足した。

『管は二本通ってる。一本は、草から人へ。草の汁を流して、寝かせたまま育てる。飯の代わりだ』

「もう一本は」

『人から草へ。血を少しずつ流す。草はそれで育つ』

「ふつうの人間の血は、一度で終わるんだろ」

『終わるよ。だから、ここにいるのは、終わるまでの人だ』

ユランの声は平らだった。平らにしないと喋れない、という声だった。

『育てて、太らせて、最後は変換器に入れる。一人で一粒』

ウィラが、マーロウの袖をつかむ手に力を入れた。

「…牛と、同じじゃん」

『牛と同じだよ、嬢ちゃん』と前を向いたヨルンが言った。『共和国は牛を飼ってない。人のほうが、言うことを聞くからな』


「じゃあ一は」とマーロウが言った。「一の血は終わらない」

『だから、あそこだけ光ってる』

ユランが、丘のすぐ下を顎で指した。

マーロウは見た。

確かに、そこだけ明るかった。

一の周りの草が、ほかの列の何倍も強く光っていた。茎の白い筋が太く、脈打つ速さが早い。光は一の体を中心に、円く広がっていた。直径で三十メートルはある。

三十メートルぶんの草が、一人の血で育っていた。

『試してるんだよ』とユランが言った。『神の血が、一晩でどれだけ草を育てるか。将軍の命令で、都へ運ぶ前に、ここで測ってる』

「いつ運ぶ」

『空船が戻ってきたら。四日か、五日か』


行く者を決めた。

マーロウ。ミラベル。ドラグ。ユランとヨルン。

ロズリンが、紙束を抱えて立ち上がった。

「私も行きます」

『来るな』とドラグが言った。

「行きます。二万人の列です。誰かが見て、書かなければ、ここは無かったことになります」

『死ぬぞ』

「死んだら、私の欄を隊長が書いてください」

ドラグは、何か言おうとして、口を閉じた。

それから、黙ってロズリンの横に立った。行くな、とはもう言わなかった。

ウィラは、言われる前に立っていた。

「残れ」

『やだ』

「頼みがある」

ウィラの顔が、少し変わった。頼みがある、とマーロウが言ったのは、三年で初めてだった。

「丘の上で、畑全体を見ててくれ。畑番じゃない奴が動いたら、灯りを三回振れ。おれたちは下にいると、周りが見えない」

『…あたしにしかできない?』

「おまえが一番目がいい。市場で三番目に速かったのは、足だけじゃない」

ウィラは、灯りを両手で受け取った。

『…分かった。三回ね。三回振ったら、すぐ戻ってきてよ』

サイラスは、荷車の横で眼鏡を拭いていた。

「私は残ります。記録係が二人とも死ぬと、記録が残りませんので」

今度は、誰も何も言わなかった。


下りる前に、マーロウは小袋から三粒出した。

ミラベルに差し出した。

『え、くれるの? 三つも?』

「吸われて減っただろ。足しとけ」

『うわぁ。うわぁ、優しい。ねえ聞いた? 聞いた? あたしの坊や、優しいんだけど』

「あたしのって言うな」

『やーだ』

ミラベルは三粒を口に放り込んで、噛んだ。ばり、ばり、ばり。

脇腹の黒い流れが止まって、金属の指が、滑らかに開いて閉じた。

『よし。満腹。十割とは言わないけど、八割』

小袋の中は、七十六になった。


畑に下りた。

近くで見ると、寝ている人の顔は、どれも穏やかだった。苦しそうではなかった。それがいちばん嫌だった。

列の端に、杭が一本ずつ立っていた。杭に、小さな札が打ちつけてある。

ロズリンが、屈んで、一枚目の札を読んだ。

『番号と、入った日と、重さ』

「名前は」

『ありません』

ロズリンは次の札を読んだ。その次も読んだ。

読みながら、紙に書いていった。番号を。一枚ずつ。

『書記。急げ』とドラグが低く言った。

「急いでいます」

『全部は書けんぞ。二万だ』

「分かっています。分かっていますから、書ける分だけ書いています」

ロズリンの筆が、そこで止まった。

札の一枚に、番号以外の字があった。

番号の下に、もう一行。

帝国より。帝国暦三〇七年。カルヴァ。

ロズリンの唇が、声を出さずに動いた。引き算をしている動き方だった。

四十一年前。

ロズリンが、顔を上げた。

札の向こうに、老人が寝ていた。

髪は真っ白で、頬がこけていた。胸に管が二本刺さっていた。肋のあたりが、少し歪んでいた。昔、三本折れて、くっつき方が悪かったような歪み方だった。

『…ガリー・ノーツ』

ロズリンの声が、震えていた。

『黒の書の、九人目です。カルヴァの海壁から落ちて、十一日目に変わった人です。四十一年前に』

マーロウは、南の港街の縫い屋の話を思い出した。

十九だった。母親を呼んだ。わしがそいつを縫った。


「…帝国が、ここへ売ったのか」

『売ったんだよ』とユランが言った。『変わった奴は、帝国じゃ使い道が少ない。共和国じゃ、畑番にも、畑にもなる。粒と引き換えに、ときどき届く』

「帝国と共和国は、敵じゃないのか」

『敵だよ。敵だから取引するんだ。欲しいものを持ってるのは、いつも敵のほうだろ』

ドラグの顔が、動かなかった。

動かなかったが、握った拳の関節が、白くなっていた。

『…おれは、壁の番を十四年やった』

ドラグの声は、低かった。

『壁の向こうから戻った者の名を、黒の書で何度も読んだ。読んだあと、その者たちがどこへ行ったのか、一度も考えなかった』

ロズリンが、ドラグの袖を、ほんの少しだけつかんだ。

すぐに放した。

老人が、目を開けた。

ロズリンを見た。

それから、ゆっくり、丁寧に言った。

『…いらっしゃいませ。何か、ご用でしょうか』

ロズリンは答えられなかった。

答えられないまま、紙の、番号の横に、名前を書いた。

ガリー・ノーツ。

四十一年ぶりに、この男の名前が、どこかに書かれた。


一のところまで、あと三十メートルだった。

光の輪の縁に入ると、草が膝の上まで伸びていた。ほかの列の倍の高さだった。白い光が、足元から顔まで照らした。

一は、仰向けに寝ていた。

目を閉じていた。胸に管が二本。一本は草から一へ。もう一本は一から草へ。一から草へ流れる管のほうが、太かった。

「おい」

返事がなかった。

「おい。起きろ。九年ぶりの風に手を広げた男が、こんなとこで寝てんじゃねえよ」

一の瞼が、動いた。

開いた。

マーロウを見た。しばらく見ていた。

『…同じ顔だ』

「そうだよ」

『同じ顔が、迎えに来た。迎えに来たぞ、おい』

一は、笑った。笑い方を忘れている笑い方で。今度は、途中でやめなかった。

ミラベルが、刃を伸ばした。

「おじさん、動かないでね。管、切るから」

刃の先が、二本の管を、胸の手前で、同時に断った。

切り口から、何も漏れなかった。刃が速すぎて、中身が切られたことに気づいていなかった。

その瞬間、畑が暗くなった。

一の周りの三十メートルだけではなかった。

見える限りの畑の、光る草という光る草が、一斉に、ふっと暗くなった。何万本もの茎の中の白い筋が、同時に息を止めたように。

一秒。

それから、また灯った。弱く。さっきの半分の明るさで。

「…何だ、今の」

ユランの顔が、白くなっていた。

『つながってたんだ。畑全部と。この人の血が、根っこを伝って、畑の端まで流れてた』

「端まで」

『二万人ぶんの畑を、この人一人で光らせてたんだよ』


丘の上で、光が揺れた。

一回。

二回。

三回。

ウィラの灯りだった。

マーロウは、畑の向こうを見た。

暗くなった畑の、地平線のあたり。畑番とは違う歩き方の影が、列を作って、こちらへ向かってきていた。

数えようとした。

数える前に、影の列の上に、翼が一つ、広がった。

第三十一章 了