第二十一章
名前の欄

一晩だけ待ってくれ、と言った。
声は、三日でも三十日でも構わないと答えた。急いでいないらしかった。二百九十年急いでいない相手に、一晩を惜しむ意味はなかった。
翌朝、アディが迎えに来た。
「作ってる場所を見せろ」
『承知いたしました』
「断られると思ってた」
『断る理由がございません』
この街の連中は、何を頼んでも断らない。そのくせ、こちらが頼まないことは何もしない。
建物は、街の北の端にあった。
中は暖かかった。湿っていた。この三十日で、湿った空気を吸ったのは、地下の海のそばと、ここだけだ。
部屋に、大きな桶が並んでいた。
桶というより、風呂に近い。人が一人、横になって入れる大きさだ。
数えた。三十二。
全部、空だった。乾いていた。底に白い輪が残っている。塩の跡だ。
「ここで作るのか」
『はい』
「最後に使ったのは」
『八十年前でございます』
八十年、乾いたままの桶が三十二。
そのうちの一つで、自分も作られたのだろう。マーロウはそう思った。
壁際に棚があった。紙の束が並んでいる。
アディが、頼まないうちに一冊抜いて渡した。頼まないことは何もしない連中の中で、それは初めての例外だった。
「なんだこれ」
『台帳でございます。一番から百六番まで』
マーロウは開いた。
一頁に一人。番号。作った日。出した日。行き先。そして最後の欄。
いちばん右の欄が、全部空いていた。
頁の上に、細い字で欄の名前が書いてある。
名前。
百六頁、百六人ぶん、その欄だけが白かった。
「誰も書かなかったのか」
『はい』
「書く決まりはあるんだろ。欄があるんだから」
『ございます。書く者がおりませんでした』
マーロウは、上着の内側から紙を出した。
一から預かったやつだ。七桁の数字が十三個。名前はない。名前は一つしかないから番号で書いた、とあの男は言った。
十三個のうち一つを、台帳の頁と照らした。
合った。
頁の右端が、白いままだった。
マーロウは、その場に座り込んだ。
三十日壁を登った脚が、そのときやっと限界を出した。
『お疲れでしたら、椅子をお持ちします』
「いい」
『では、そのままで』
「アディ」
『はい』
「あんた、名前があるって言ったな。ノールって」
『はい』
「誰がつけたか分からないって言ったな」
『はい。ついておりましたので』
マーロウは台帳を閉じた。
「おれたちには、ついてなかった」
アディは答えなかった。
答えなかったのは、答えを持っていないからだ。この男に、それ以上を求めても仕方がない。
ウィラの声が、頭の中で二回鳴った。
一回目は、四年前の牛の話だ。名前の欄だけなかった。
二回目は、灯台跡だ。書いてない粒を人に渡したら、それが何だったのか、もう誰にも分かんなくなる。
あのとき、あの子は石の板に何かを彫った。恥ずかしいと言って隠した。
マーロウは、その中身を知らない。
知らないまま、今、それがどういう種類の行為だったのかが分かった。
部屋へ戻ったのは、昼を過ぎてからだった。
サイラスは昨日と同じ椅子に座っていた。座ったまま眠っていたのかもしれない。
『お早いお戻りで』
「返事を言いに来た」
『どうぞ』とサイラスが言いかけて、口を閉じた。
言う相手は、この男ではない。
マーロウは壁のほうを向いた。
「原型になる」
『承知しました』
「まだ喋ってる。条件がある」
『どうぞ』
「一つ。坑底の男を、明日上げろ。おれが街から戻るのを待たずにだ」
『可能です』
「二つ。百六人ぶんの台帳の、いちばん右の欄を埋めろ」
声は、初めて聞き返した。
『何を書けばよろしいですか』
「名前だ」
『百六人とも、名前はマーロウ・ケインです』
「じゃあ百六回書け。百六回、全部書け」
声は二秒黙った。四度目だった。
『可能です』
「三つ。これから作る百六人にも、名前をつけろ。別々のやつをだ」
『名前は識別に使いません。番号があります』
「識別の話をしてない」
『では、何の話でしょうか』
マーロウは、答えを持っていた。
三十日かけて登ってきたあいだ、ずっと後回しにしていた質問の答えが、そこにあった。
「消えたときに、何が消えたのか分かるようにしとく話だ」
壁は、しばらく何も言わなかった。
それから、いつもの抑揚のない声で言った。
『了承しました。三件とも実行します』
マーロウは、その返事の速さに引っかかった。
三十年をこの建物で過ごす代わりに出した条件が、三つとも、一度で通った。
値切られなかった。
十年拾い屋をやってきて、値切られなかった取引は、一度もない。
第二十一章 了