第二十五章
東から来た女

水位は、一晩で三メートル上がった。
ハーランが縄に錘をつけて穴に下ろし、朝と晩に測った。三千八百メートルの底から、三メートル。数字だけ見れば、たいしたことはない。
ただ、止まらなかった。
「このままだと、いつ埋まる」
『計算していない』
「しろよ」
『したくない』
ハーランは錘を巻き上げながら、そう言った。
九年、空という紙を受け取り続けた男が、初めて数字から目をそらしていた。
代わりに計算したのは、ロズリンだった。
『一晩で三メートル。このままなら、三千八百メートルが埋まるのに、千二百六十日ほどかかります。三年半です』
「三年半か。思ったより長いな」
『長くありません』
ハーランが、錘を持ったまま言った。
『掘る場所は底にある。管も、先端の刃も、作業する床も、全部底だ。底が沈めば、上に三千メートル残っていようと、掘削は終わりだ』
「底が沈むのは」
『三日だと、あの男が言った』
ハーランは、塔の下で膝を抱えている一のほうを顎で指した。
『三年半かけて穴が埋まるんじゃない。三日で六十年が終わって、残りの三年半は、ただ水が上がってくるのを眺めるだけだ』
女が来たのは、その日の昼だった。
東から来た。
最初に気づいたのは、見張りの坑夫だった。地平線を指して何か叫んで、それから黙った。
マーロウも見た。
人影が一つ、走ってくる。
馬ではない。人の足で走っている。それなのに、近づいてくる速さが、三日前に乗ってきた荷車の倍はあった。
砂煙が後ろに長く伸びていた。
「…何だ、あれは」とドラグが言った。
ドラグが「何だ」と言うのを、マーロウは初めて聞いた。
女は、囲いの石の列の手前で止まった。
止まるときに、砂を一歩も滑らせなかった。走っていたものが、そのまま置物になったような止まり方だった。
背が高い。ドラグと並べても、頭一つ低いだけだ。三十くらいに見える。
髪は灰色で、耳の下で雑に切ってある。右の目は茶色で、よく笑う目だった。左の目は、色がなかった。灰色の、磨いた金属のような目で、瞬きをしなかった。
服は継ぎはぎだらけだった。この二か月で、清潔な服ばかり見てきた。その中で、この女だけが街の拾い屋のような格好をしていた。
そして、左腕が肘から先、人の腕ではなかった。
本部の壁と同じ金属だった。継ぎ目があって、細い線が規則正しく走っている。錆びていない。指が五本ある。動いていた。
女は、掘削地をぐるりと見回して、それから笑った。
『あっはは。ずいぶん集まってるねぇ。歓迎されてるのかい、あたし』
誰も答えなかった。
『されてないか。そりゃそうだ』
女は勝手に囲いをまたいで、勝手に火のそばへ行って、勝手に鍋の蓋を開けた。
『お、豆だ。豆は好きだよ。もらうよ? もらうね』
返事を待たずに、指で一つつまんで口に入れた。金属のほうの指だった。
マーロウは、この女が怖かった。
怖いのに、目が離せなかった。シビルのときと同じだった。違うのは、シビルは整いすぎていて落ち着かなかったのに対して、この女は、ただ普通だったことだ。
普通に笑って、普通に豆を食べて、普通に周りを見ている。
それが、いちばん怖かった。
ドラグが前に出た。
「名を言え。ここは帝国の掘削地だ」
『名前? ミラベル・グリム』
女は豆を噛みながら言った。
『可愛いでしょ。ミラベル。つけた奴のセンスは褒めてやりたいねぇ。まあ、もう死んでるけど』
「用件は」
『本部のお使い』
掘削地の空気が、その一言で変わった。
『ここ、閉めるんだって。穴、埋まるんでしょ? 埋まる穴に人を置いといても仕方ないから、全員連れて東へ来いってさ。十九人と、主任と、あと細々したの』
「細々したの、とは」
『あんたたち』
ミラベルは、ドラグと、ロズリンと、ウィラと、一と、マーロウを、順番に指さした。金属の指で。
『あ、坊やは別。坊やは契約があるからね。あたしが連れてくのは、それ以外』
「断る」とドラグが言った。
『だよねぇ』
ミラベルは鍋の蓋を閉めた。
『断られるのは慣れてるよ。断られなかったこと、あんまりないもん』
「連れていった者はどうなる」
『歩いてもらう。東へ。自分の足で』
マーロウは、乾いた窪地の足跡を思い出した。
二列に並んで、同じ歩幅で、東へ。五十八組。
「あんたか」とマーロウが言った。「先月の隊を連れてったのは」
『あたしだよ』
ミラベルは、あっさり言った。
『二十一人。途中で三十七人拾った。拾ったって言い方は悪いね。合流? まあ、そんな感じ』
「どうやって歩かせた」
『それは企業秘密だよ、坊や』
ミラベルは片目をつぶった。茶色いほうの目だった。金属の目は、閉じなかった。
ドラグが腰の得物を抜いた。
棒の先に鉄をつけたものだ。水吸いを叩くために、隊の全員が持っている。オークの腕で振れば、人の頭蓋くらいは砕ける。
「十九人は渡さん」
『へえ』
ミラベルは、初めてドラグを正面から見た。
『あんた、壁の隊長だろ。十九人とは今日会ったばっかりじゃないのかい』
「二か月前だ」
『二か月か。二か月で、そこまで言うんだ』
ミラベルは笑った。笑い方が、さっきと違った。面白がっている笑い方だった。
『いいねぇ。あたし、そういうの好きだよ。好きだけど』
ドラグが踏み込んだ。
速かった。オークの体重が、そのまま前に出た。棒が横から振られた。
当たらなかった。
ミラベルは一歩も動いていなかった。動いたのは左腕だけだった。
金属の腕の、肘から手首までの線に沿って、何かが伸びた。薄くて、長くて、光を返さない刃だった。
刃は、振られた棒の軌道に置いてあった。置いてあっただけだった。
棒が、刃に当たって、二つになった。
鉄の部分ごとだった。切り口が鏡のように平らだった。
先の半分が、くるくる回って飛んで、三十メートル先の砂に刺さった。
ドラグは、手元に残った半分を見ていた。
それから、捨てた。拾い直す意味がないと、一目で分かったからだ。
素手で構えた。
『まだやるんだ』
「十九人は渡さん」
『あっはは。いいよ、いいよ。好きだって言ったろ』
ミラベルは刃を引っ込めた。腕の中に、音もなく戻っていった。
『でも、今日はやめとく』
「…なんでだ」とマーロウが言った。
訊かずにいられなかった。
この女なら、ここにいる全員を、今この場で片づけられる。それは全員が分かっていた。
『坊やが面白いからだよ』
ミラベルは、マーロウのほうへ歩いてきた。三歩手前で止まった。ウィラがマーロウの袖をつかんだ。
『あの穴、登ってきたんだって? 三千八百メートル。三十日かけて』
「…誰に聞いた」
『本部。あいつ、珍しく驚いてたよ。驚いてるの初めて見た。あいつ、驚いても声が変わんないから分かりにくいんだけどさ。間が一つ多かった』
ミラベルは、マーロウの顔を覗き込んだ。茶色い目と、金属の目の両方で。
『それで、登ってきた坊やが、あいつと取引して、条件を三つ出して、三つとも通した。で、その一つ目のせいで、六十年の穴が埋まろうとしてる』
「…」
『面白いじゃないか。ねえ?』
ミラベルは、塔の根元の石の上に腰を下ろした。
足を組んで、空を見上げた。
『三日だっけ。水が床まで来るの。本部がそう言ってた。あたし、それまでここで見てる。坊やが何するか』
「何もしなかったら」
『そしたら、三日目に全員連れてく。十九人と、主任と、隊長と、書記と、嬢ちゃんと、坑底から上がってきたおじさん』
「何かしたら」
ミラベルは、そこで初めて考えるような顔をした。
それから、にっと笑った。
『それは、何したかによるねぇ』
第二十五章 了