海壁

第三十章

鐘鳴き

挿絵:鐘鳴き

草が倒れる線は、真っ直ぐだった。

曲がらない。迷わない。光る草の海を、一本の線が裂いて、こちらへ伸びてくる。

鳴き声が、また来た。

水の中で鐘を鳴らしたような音。今度は近かった。地面が、足の裏でかすかに震えた。

「何だ、あれは」

『鐘鳴き、って呼んでる』と前を向いたヨルンが言った。『共和国の番犬だ。国境に八頭いる』

「どう戦う」

『戦わない。見つかったら、逃げる』

「逃げられるのか」

後ろを向いたユランが、首を横に振った。

『無理だよ。あれは粒を食う。粒の匂いを追ってくる。荷台に百本からの海の水を積んで、粒で動いてる女を連れて、逃げられるわけがない』


ミラベルは、荷車の前に出ていた。

あくびをしていた。さっき「お腹すいてた」と言ったときと同じ顔だった。

それが、途中で変わった。

『…あれ』

ミラベルが、自分の左手を見た。金属の指を、一本ずつ曲げた。

曲がり方が、遅かった。

『あー。そういうこと。あっはは、やだなぁ』

「何だ。どうした」

『吸われてる』

ミラベルは笑っていた。笑っていたが、声が細くなっていた。

『あいつ、遠くから粒を吸うんだよ。近づくほど強く吸う。あたし、半分が粒でできてるって言ったよね』

「…言った」

『だから、相性、最悪』


草の海が、割れた。

出てきたものは、大きかった。

高さは荷車の倍。長さは荷車を三台並べたくらい。低く地面に張りついていて、脚が数えきれないほどある。

体は透き通っていた。硬い板を何百枚も重ねたような殻で、板の一枚一枚の奥で、白い光がゆっくり脈打っていた。本部の廊下と同じ色の光だった。

頭がなかった。

頭があるべきところに、大きな穴が一つ開いていた。穴の縁が、ゆっくり開いて、閉じた。そのたびに、鐘の音が鳴った。

馬が二頭、同時に暴れた。

ドラグが手綱をつかんで押さえつけた。押さえつけながら、荷台の後ろへ叫んだ。

『書記! 降りろ! 荷車から離れろ!』

ロズリンは紙束を抱えたまま、荷台から転げ落ちた。


鐘鳴きが、ミラベルに向かって、穴を開いた。

ミラベルの体が、前へ引かれた。足が砂を滑った。数日前、砂を一歩も滑らせずに止まった女が。

脇腹の、双子に裂かれた傷口が、また開いた。

黒いものが、にじみ出て、宙に浮いた。

浮いたまま、細い筋になって、鐘鳴きの穴へ吸い込まれていった。

『っ、あー…これ、ちょっと、まずいかも』

ミラベルが、左腕の刃を伸ばした。

伸びきらなかった。いつもの半分の長さで、止まった。

マーロウは、帯の左側を押さえていた。

革の小袋が、帯の中で動いていた。

袋の中の粒が、鐘鳴きのほうへ引かれて、革を内側から押していた。

「…こいつ、おれの粒も狙ってる」

『そりゃそうだよ。坊や、九十九粒も持ってんだもん。あっちからしたら、ご馳走の袋だよ』

マーロウは、鐘鳴きを見た。

頭がない。目もない。粒の匂いを追ってくる、と双子は言った。

粒の多いほうへ行く。


マーロウは、走った。

荷車と反対の方向へ。光る草の中へ。

『マーロウ!?』

ウィラの声が、後ろで裏返った。

振り返らなかった。帯から小袋を引き抜いて、紐をほどいて、手のひらに十粒ほどつかんで、走りながら後ろへばらまいた。

鐘鳴きの穴が、こちらを向いた。

向いた、と分かった。頭がないのに、分かった。何百本もの脚が、一斉に向きを変える音がした。

ミラベルの体を引いていた力が、ふっと消えた。

鐘鳴きが、来た。

速かった。草を押し倒しながら、地面を揺らしながら、真っ直ぐに。

マーロウは走った。三十日壁を登った脚で、痛みを感じない体で、光る草を掻き分けて。

十歩ごとに、十粒ずつ撒いた。

鐘鳴きは、撒くたびに少しだけ止まった。止まって、穴を地面に押しつけて、粒を吸った。それから、また来た。

袋が軽くなっていった。

九十九が、八十九になった。七十九になった。

背中で、鐘が鳴った。

近すぎた。

振り返ると、透き通った殻が、目の前にあった。殻の奥の白い光が、ゆっくり脈打っていた。穴が、開いた。

マーロウの帯が、前へ引かれた。袋ごと。

袋を、握りしめた。放さなかった。

体ごと、穴のほうへ引きずられた。


光が、横から来た。

光ではなかった。刃だった。

ミラベルが、草の上を跳んでいた。

鐘鳴きがマーロウに穴を向けているあいだ、ミラベルを吸う力は無かった。その分だけ、刃が伸びていた。いつもの長さに。いつもより、少しだけ長く。

『坊や、伏せて!』

マーロウは伏せた。

頭の上を、刃が通った。

鐘鳴きの殻に、線が入った。一本。真っ直ぐに。穴の縁から、殻の尻まで。

何百枚もの板が、線に沿って、ずれた。

ずれた隙間から、白い光が噴き出した。光は一瞬だけ草の海を昼みたいに照らして、それから、消えた。

鐘の音が、途中で止まった。

鐘鳴きは、二つになって、倒れた。

殻の中から、粒がこぼれ出した。

何百粒も。もしかしたら何千粒も。黒い粒が、光る草の上にざらざらと広がった。

マーロウが撒いた二十粒も、その中に混じっていた。どれがどれか、もう分からなかった。


ミラベルが、マーロウの横に降りた。

息が荒かった。脇腹を押さえていた。黒いものが、指の間から垂れていた。

それから、マーロウを見た。

しゃがみこんで、顔を近づけて、茶色い目と金属の目の両方で、じっと見た。

「…何だよ」

『坊や、今、自分が餌になって走ったよね』

「餌じゃない。囮だ」

『同じだよ。あたしから引き離すために、粒持って、あいつの前を走った』

「そうしないと、あんたが吸い尽くされてただろ」

ミラベルは、黙った。

二百十年生きている女が、黙った。

それから、急に、大声で言った。

『惚れた!』

「…は?」

『惚れた! 今、惚れた! 決めた! 坊や、あたし、あんたに惚れたわ!』

「待て。何言ってんだ、あんた」

『二百十年で初めてだよ、あたしの前を走ってくれた奴! みんなあたしの後ろに隠れるんだもん! あっはははは!』

ミラベルは、マーロウの両肩をつかんで、揺さぶった。金属の手と、そうでない手で。

『決めた決めた。もう決めたからね。取り消さないよ』

「取り消せ。今すぐ」

『やーだ』

光る草の向こうから、ウィラが走ってくるのが見えた。


ウィラは、走ってきて、マーロウの前で止まった。

ミラベルを見て、マーロウを見て、それから、マーロウの胸を拳で殴った。

『ばか!』

「痛くない」

『知ってるよ! 知ってるから殴ってんの!』

もう一回殴った。

『なんで一人で行くの! なんで何も言わないで走るの! あたし、あたし、また置いてかれるかと思ったじゃん!』

三回目は、殴らなかった。

拳を開いて、マーロウの服をつかんで、顔を胸に押しつけた。

肩が震えていた。

マーロウは、どうしていいか分からなかった。

三年、この子と暮らしてきた。一緒に飯を食って、一緒に市場を歩いて、一緒に水道橋の上で夕焼けを見た。

それでも、こういうときにどうすればいいのかは、知らなかった。

知らなかったので、手を上げて、ウィラの頭に置いた。

赤茶の髪は、結わえた端から半分落ちていた。

三年で初めて、その頭に手を置いた。

「…悪かった」

『悪いよ。すごく悪い』

「次は言ってから走る」

『走らないでよ、そもそも』

ミラベルが、横でそれを見ていた。

茶色い目が、少しだけ、優しくなっていた。

『…あー。なるほどね。親子みたいなもんか』

小さい声だった。誰に聞かせるでもない声だった。


荷車のところへ戻ると、ロズリンが砂の上に座り込んでいた。

紙束を抱えたまま、震えていた。書こうとして、筆を持つ手が震えて、字にならなかった。

ドラグが、無言で自分の上着を脱いだ。

脱いで、ロズリンの肩に掛けた。

何も言わなかった。ロズリンも、何も言わなかった。

ロズリンは、しばらく上着の襟を両手で握っていた。

それから、筆を持ち直して、一行だけ書いた。

マーロウには、何と書いたのか見えなかった。

ロズリンは、書いたあとで、その行の上に紙を一枚重ねて、隠した。記録係が、自分の記録を隠すのを、マーロウは初めて見た。


鐘鳴きの残骸を越えて、さらに半日、南へ進んだ。

光る草の海が、そこで終わっていた。

丘の上に出た。

下を見て、全員が、荷車を止めた。

畑だった。

地平線まで続く、四角く区切られた畑だった。区画の一つ一つに、光る草が植えられていた。

そして、草のあいだに、人が並んでいた。

横になっていた。一列に。何百列も。頭を同じ向きに揃えて、腕を体の横につけて。

眠っているように見えた。

一人一人の胸から、細い管が一本ずつ伸びていて、光る草の根元に刺さっていた。

草の茎の中の白い筋が、脈打っていた。人の胸が上下するのと、同じ速さで。

『共和国は、牛を飼ってないって言ったよね』

ミラベルが、丘の上で、静かに言った。いつもの笑いはなかった。

『人を飼ってるって』

ウィラが、マーロウの袖をつかんだ。今度は、両手で。

マーロウは、畑の列を数えようとして、やめた。

数えるのをやめたのは、数が多すぎたからではなかった。

列の、いちばん手前。丘のすぐ下。

管につながれて横になっている男の顔が、見えたからだった。

白い髪。痩せた体。左の眉が真ん中で切れている。顎の右側に、細い傷が二本。

八日前、九年ぶりの風に両手を広げて、恥ずかしそうにやめた男だった。

第三十章 了