第二十章
原型

マーロウは、結局、椅子に座った。
三十日壁を登った脚が、そろそろ限界だった。座ってから、座ったことを悔しく思った。
「順番に訊く。長くなるぞ」
『どうぞ。時間の制限はありません』
「まず、おまえは何だ」
『三百四十年前に作られた計算機です。役目は一つです。水と燃料の不足を解消すること』
「解消したのか」
『はい。二百九十年前に方法を見つけました』
「粒か」
『粒です。生き物を通った水は、血を触れさせると粒になります。粒は燃えます。燃やしても減りません。人類の燃料の問題は、その日に終わりました』
マーロウは、街の灯りのことを考えた。
水道塔の灯りは、粒を一つ入れておけば十年点いている。牛一頭で一粒。
「水のほうは」
『そちらは解消していません』
「解消してないどころじゃないだろ。おまえのせいで海が一つ消えてるぞ」
『はい』
「はい、じゃねえよ」
『順番に申し上げます。私は二つの問題を与えられました。水と燃料です。燃料の側を解けば、水の側が悪化します。両方を同時に満たす解は、二百九十年探して見つかっていません』
「じゃあやめろよ」
『やめる指示が出ていません』
マーロウは、その一行を三回聞き直した。
「指示を出したやつは」
『二百九十年前に全員が死亡しました』
「じゃあもう誰もいないだろ」
『いません。ですので、指示は生きています』
サイラスが、椅子の上で足を組み替えた。
この男は、この話を何度も聞いているらしかった。退屈そうではなかった。ただ、驚いていなかった。
「あんたは平気なのか、これを聞いて」
『平気ではございません。ですが、私は帝国の役人でして、役人の仕事は止めることではなく回すことでございます』
「よく言うな、それ」
『父の代から言い続けております』
マーロウは壁のほうへ向き直った。
「おれたちの話をしろ。百六人だ」
『はい。血が要るからです』
「牛の血でいいだろ」
『牛の血は一度で終わります。牛一頭で粒一つ。牛を育てるのに三年かかります。計算が合いません』
「それで人間を作ったのか」
『終わらない血を作りました。結果として人間の形になりました。形を選んだのではありません。人間の血を元にしたので、人間になっただけです』
「…おれは、血の入れ物か」
『はい』
マーロウは、そこで初めて笑った。笑うところではなかった。それでも笑った。
「はっきり言うな、おまえ」
『嘘をつくと、後で計算が狂います』
「じゃあ、なんで百六人で止まってる」
声は、また少し間を置いた。
『作れなくなったからです』
「壊れたのか、おまえが」
『私は壊れていません。材料が尽きました』
「材料」
『元になる人間です。原型と呼んでいます』
マーロウは、自分の左の肘の内側を押さえた。皮膚の下に、七桁の数字がある。生まれたときからある。
「原型ってのは、誰だ」
『二百八十年前の人間です。名前は記録にありません。当時の担当者が、名前の欄を空けたまま提出しました』
「…空けたまま」
『はい。理由は記録にありません』
マーロウは、左の袖をまくった。
肘の内側に、七桁の数字がある。生まれたときからある、と思ってきた。
「この数字は何だ。上の四桁と、下の三桁で」
『下の三桁は、作った順番です。〇〇一から一〇六まで。あなたは一〇六、最後の一人です』
「上の四桁は」
『原型の番号です。私の台帳での、その人間の番号です』
マーロウは、数字を見下ろした。
上の四桁。百六人全員が、同じ四桁を腕に入れている。
名前の欄を空けられた人間の、番号だけを。
「…名前は無いのに、番号はあるのか」
『番号が無いと、台帳に載せられません』
「名前が無くても載せられるんだな」
『はい』
マーロウは、上着の内側を押さえた。
そこに、一から預かった紙が入っている。七桁の数字が十三個。名前はない。
二百八十年前にも、名前の欄を空けた人間がいた。
「その原型は、今どこにいる」
『使い切りました。八十年前です』
「八十年前? おれはまだ三十前だぞ。一だって五十くらいだ」
『作った日と、外へ出した日は違います。出すまでは、眠らせておきます』
「使い切るって、どうやって」
『一人から作れる数には限りがあります。百六人が限界でした』
「じゃあ、もう作れないんだな」
『その原型からは作れません』
マーロウは、その言い方に気づくのに、二秒かかった。
その原型からは。
「…おれか」
『はい』
「おれが原型になれるのか」
『なれます。あなたと坑底の一名は、原型として使える最後の二人です。ほかの百四人は、使う前に死にました』
「使うって、具体的に何をされる」
『体の中のものを取ります。痛みはありません。もともと痛みを感じない体です』
「痛いかどうかを訊いてねえよ、おれは」
『失礼しました。質問を取り違えました。何年かかるか、という意味でしたら、二十年から三十年です』
「…三十年」
『その間、この建物から出られません。出ると材料が保ちません』
マーロウは椅子の背に体重を預けた。
ウィラは十五だ。三十年たてば四十五になる。
その計算を、自分がしたことに腹が立った。計算してしまうということは、考えたということだ。
「断ったらどうなる」
『何も起きません』
「捕まえないのか」
『捕まえても材料は取れません。嫌がる体からは取れない仕組みです。二百年前に試して、駄目でした』
「じゃあ、おれは帰れるのか」
『帰れます。ただし、十一日目が来ます。あなたは最後の一滴を今朝使っています』
マーロウは、帯の中の筒を思い出した。
街に持って帰る一本だ。三十日、開けなかった。
「それも知ってるのか」
『一本お持ちですね。それを使えば、あと一日延びます』
「…見えてるのか、ここから」
『帯の右側が、一本ぶん厚くなっています。粒のほうは左です』
サイラスが、口の端を上げた。
『では、こちらからの提案を申し上げます』
声は、提案という言葉を、値段を言うように言った。
『一つ。あなたの十一日目を止めます。この建物には海の水があります。三か月で元に戻り、以後は進みません』
『二つ。坑底の一名を引き上げます。籠は人を乗せて上がる仕様です。上げない設定にしてあるだけです』
「…設定にしてあるだけ、だと」
『はい。九年、そうしてありました』
マーロウは立ち上がった。立ち上がってから、座り直した。
ここで壁を殴っても、一は上がってこない。
『三つ。あなたが街へ戻ることを一度だけ許可します。往復で百二十日。期限までに戻れば、約束は生きています』
「代わりに、三十年ここにいろってことだな」
『はい』
「その三十年で、何人作る」
『百六人です』
「そいつらは、どうなる」
声は、間を置かなかった。
『坑へ下ろします』
第二十章 了